三方ヶ原の家康

ー 三方ヶ原の家康ー

リーダーとしての姿勢!

 果敢な意思決定の瞬間、清水の舞台からの“飛翔”は始まるという話を書いていきます。
 徳川の江戸幕府の260年余りの礎は、家康の人生の中での最悪の敗戦によって作られました。それは戦国時代最強の軍団であった武田信玄によってわずか数刻で木端微塵に粉砕された三方ヶ原の合戦がそれです。
 1572年12月、信玄は準備万端整え、京都上洛の遠征の途に着きました。その道筋には徳川家康、織田信長がいました。
 まず当たったのが、当時、信長と確固な同盟を組み、中型国家を築きつつあった三河徳川でした。武田軍二万余り。その数以上に、最強といわれた騎馬軍団の影に同盟者信長も恐れをなし、わずか3000のみの援軍を派遣。籠城し、時を稼ぐようにとの指示を出します。徳川家臣の意見も同じでした。8000の兵が息を潜める中、迫った武田軍はこともあろうに、城を攻めずに目前を移動していきます。
つまり、家康は全く無視されたのでした。ここでは、二つの選択肢がありました。家臣同様に城で息を潜める方法。そしてもう一つは、領土を侵して尾張へ向かう武田軍に対して、負けを覚悟で戦いを挑む道、この二つです。
 「殿、ご乱心!」とおそらくほとんどの家臣は思ったであろう選択を家康は下しました。あえて武田軍に戦いを挑んだのです。必敗が確信できるほどの力の差がありました。






mikatagahara.jpg三方ヶ原古戦場
 
 敗死確実の中でなぜ家康は戦いの道を選んだのでしょうか。「信を通す」という言葉だけなのです。織田との同盟を通すという選択、その先にしか、家康には徳川の家名を立てる道がないとそう思ったに違いありません。乱暴な言い方をしますが、家康はこの賭けに勝ちました。400の兵を失い、自ら城に逃げ込むという大敗戦の中から“信”をつくりました。
 「武と義を守ることにかけては何者をも恐れない」信長にだけでなく、当時すべての武将達にこのことが認識されたはずです。秀吉が最後まで家康を恐れた背景もここにあるのではないでしょうか。家康が命がけでつくった“信”はとても強固となったのです。このリーダーとしての強い姿勢、経験がのちの260年にも及ぶ江戸幕府を作り上げられたものとして学ぶべきでしょう。